学校は「自分について」学ぶための場所

こんちゃ!machuno(@machuno3)やで!

たった今、気付いたこと。

わたしにとって学校は、「わたしについて」を教えてくれる場所だった。

 

今回はわたしの経験談をベースに、学んだことを書いていきます。

 

学校は多くの人にとっての「普通」を教えてくれる場所

小学校、特に低学年であればあるほど、多くの人が「素」のままで生きている。

しかも同年代の子どもたちが大勢集まる場所なので、そこではある程度の「平均」を知れる。

ということは、ありのままの自分が、平均と比べてどういう人間なのかがわかりやすいということ。

 

集団生活をする前は「みんな」という概念がないので、それぞれが「個」を最大限に発揮して生きている。ひとりひとりが、自分の基準で生きている。

それが、幼稚園や小学校に入り、集団生活というものを学び始める。

集団生活では、和を乱さないため、一般的な「こうしなければならない」「これをしてはいけない」などの誰が決めたのかわからないような決まりを守るように強いられる。

「個」よりも「みんな」を重要視するように教えられる。

 

「普通」じゃない自分が恥ずかしい

しかし、わたしはここでつまづいた。

先生に何度注意されても授業中に友達とおしゃべりしてしまうし、何度言われても忘れ物をしてしまう。先生の話が左から入って右に抜けていき、「今先生はなんて言いましたか?」と聞かれても答えられない。興味がないからすぐに忘れてしまう。ほとんどのみんなはちゃんとしているのに、わたしのような少数派のダメ人間ばかりが注意されて恥ずかしい。

「こうしなければいけない」と言われても、嫌だからやりたくないし我慢したくない。どうやってズル休みするかばかり考える。時にはズルがバレて友達から白い目で見られる。ますます自分はクズなんだと思い込む。

みんなと違っておしゃれに興味がなかったから見た目を飾ろうともしなかったし、わたしだけ歯が全部黒かったことでからかわれたりもして、見た目が「普通」じゃないとダメなんだと学び、自分の見た目にも自信をなくした。

 

そうやって、わたしは性格も見た目も「普通」じゃないんだ、むしろ悪いんだと思った。

「普通」じゃない自分が恥ずかしくて、いつも目立ちたくないと思ってた。なんとか「普通」のみんなに馴染みたいと努力した。本当は嫌なことも我慢した。そしたらあまり目立たない、割といい子になった。

 

「我慢」は絶対続かない

しかし、高校2年生あたりから我慢の限界がじわじわと訪れてきた。だんだん「嫌だ」「やりたくない」と主張するようになってきた。

先生にいちいち歯向かい、ほぼ毎日遅刻や早退を繰り返し、家族にも心配と迷惑をかけた。そんなわたしに内緒で、兄がこっそり先生に謝りに行っていたほどの問題児だった。

またわたしは「クズ」に戻った。クラスメイトにも「まちゅの、ダメ人間やな」と言われていた。その通りだと思った。

「普通」のみんなが心底うらやましかった。と同時に、「普通」になんかなりたくない、我慢はもうしたくないとも思っていた。

 

大学への進学が当たり前のクラスで「大学へは行かない」と言い張ったものの、周りからの圧力で結局大学へ行くことにした。

そして大学へ行ったものの、またクズな自分を挽回しようとして初っ端から頑張りすぎてしまい、入学して数か月で登校拒否に。

この頃は今のところ人生MAXの病み期で、精神が疲れ切って、いっそ消えたかった。

大学は数年休学し、結局中退した。

最初から行かなきゃよかったとも思ったけれど、大学へ行かずに働くのも嫌だったので、どちみち地獄だったなと思った。

 

みんなより劣っているのではなく、むしろ才能なのかも

そんな病み期にどっぷりと入り、なんとか現実から逃げ出したい気持ちから、霊感商法にハマってしまい、家族のお金をたくさんだまし取られ、また迷惑をかけてしまったりもした。

しかし、そのことがきっかけで「あれから何も成長していない自分」に気が付いた。

それでやっと、真剣に自分の心と向き合うようになった。

自分がクズである根本的な原因を見つけて、根本的に変えたいと思った。

 

そしてたくさんの本を読んだり、いろんな人を観察しているうちに、「短所は短所じゃないんだ」と考えるようになってきた。短所をなくすつもりで始めたはずの自分探しで、短所はなくすのではなく、活かすものだという答えに辿り着いた。

「みんなと違う」は「劣っている」のではなくて、「素晴らしい才能の種」なんじゃないかって考えるようになった。

  • 協調性がない→自分をしっかり持ってる
  • みんな(多数派)と同じにできない→みんなにはできないことができるかも
  • 嫌なことに我慢ができない→好きなことだけに集中できる
  • 自分を”飾る”ことができない→素の自分で生きられる
など、今までは「ダメなところ」と思って自分を苦しめていた材料が、むしろ自分を輝かせてくれる材料なのかもしれないという可能性に気が付いた。

これによって、人生に少しの希望を持つことができるようになった。

 

「なにもしなくてもそのままで完璧である」という真実

さらにわたしは「霊感体質かなみのけっこう不思議な日常」という本に出会い、過去に霊感商法で騙されてから「目に見えないものは信じない」と頑なだったのがほぐれ、目に見えない世界のことを知りたくなった。

霊感商法で騙されてから”嘘”に敏感になったわたしは、「この本の著者は嘘をつく人ではない」と直感した。←この頃からわたしの「真実センサー(真実だ、という直感)」が働くようになっていたw

また、わたしは相当に頑固な「目に見えないものは信じない派」だったけれど、以前から幽霊もUFOもこの目で見ているし、なんなら目に見えない”神様”を触ったこともあった。そんな今の科学では証明できないような実体験が、「目に見えない世界の真実を知りたい」という好奇心を燃え上がらせてくれる燃料になっていた。

 

わたしはスピリチュアルの世界にどっぷりハマり、自分なりに考えつつ、わたしの「真実センサー」が示した人に会いにイベントへ行って話を聞いたり、たくさんの本を読んだ。

そして最近、やっと目に見えない世界・スピリチュアルの真髄に触れた。

machuno、悟ったってよ。

2018.10.04

それは単なるスピリチュアルの真髄ではなく、この世界全体の真実だった。

この世界の真実をわたしなりに一言で表現すると、

ALL OK

つまり、すべてがそのままでOKということ。「長所」「短所」というジャッジは、人間の思い込みにすぎないということ。本来は長所も短所もない、いや、すべてが長所と言ったほうがわかりやすいかもしれない。

 

この真実に触れたとき、あらためてわたしは「このままで素晴らしいんだ」と思えた。

わたしが今まで「短所」だと思っていたものも、すべては自分という完璧な存在の一部だった。今まで「短所」だと思っていたことも含めて、わたしは完璧なんだと分かった。

 

そしたら、

machuno
じゃあ学校でこれでもかってくらい見せつけられたわたしの「短所」って、実は「才能」を教えてもらってただけだったんじゃね?

ということにも気付いた。みんなと違うわたしだからこそできることがあるってことだよなって。

中には「みんなと同じ、何のとりえもない普通の人間」ということが短所だと思っている人もいるかもしれない。でもそれは「みんなと馴染める」っていう、わたしから見ればすごい長所。みんなと同じだからこそできることが、その人にはあるんだと思う。

 

そう心から思わせてくれた本のうち、わたしが最近特に感銘を受けたのがこちらの2冊。

この本は2冊とも同じ著者の本で、臨死体験によってこの世界の真実を体感し、学んだ人。

「まだ身体にいるうちに、どうして私たちはこのことが理解できないんだろう?自分にあんなにまで厳しくするべきじゃないって、私はなぜわからなかったんだろうか?」

(中略)私は存在するだけで、愛のこもった思いやりを受けるに値するのだと理解しました。何か特別なことをする必要もなく、ただ存在するだけで、愛される価値があったのです。それ以上でも以下でもありませんでした。

(中略)なぜなら、愛されるためには努力する必要があるといつも思っていたからです。好かれるに値する人間にならなくてはいけないとずっと信じていました。ですから、実はそうではないとわかったのは、すばらしい発見でした。単に自分が存在しているということだけで、私は無条件に愛されていたのです。

この拡大した、偉大な本質が本当の自分だと知った時、考えられないほどの明瞭さの中で私は変容しました。それは私という存在の真実でした。

引用元:喜びから人生を生きる! ― 臨死体験が教えてくれたこと

死でさえも完璧であり、あらゆるものが、より大きなタペストリーの中で、予定通りに展開していることもわかっていました。

引用元:喜びから人生を生きる! ― 臨死体験が教えてくれたこと

人間がマイナスなことだと思い込んでいるだけで、本当はすべてが完璧なのだという真実を、著者のアニータ・ムアジャーニさんは臨死体験によって悟ったのだそう。

わたしが最近悟ったことと一致する話だったし、世のスピリチュアルは結局このことをあらゆる表現によって伝えようとしているだけなんだということも分かった。

 

じゃあわたしは何も劣等感を感じることなどないし、所詮狭い価値観の中でもがき苦しんでいただけなんだなって。

むしろ悪いことだと思っていたことは、すべてが天から与えられたギフトであり、それをどのように使うべきかも天が自然と導いてくれる。だから自分は何も頑張らなくていいし、自然の流れに身を任せて、ただ自分は自分であればいい。

 

わたしは今まで、自分自身でいようとするのとは正反対の、自分を変えようとしていたから、根本から間違っていたから変われなかったんだと気付いた。そして変わってはいけなかったのだとも気付いた。変われなくてむしろよかったのだ。

 

わたしは「社会不適合」で本当によかった

今までわたしはただ、この世の狭い価値観によって苦しんでいただけだった。

わたしにとって最もつらかった学校という場所は、本当はただわたしという人間について教えてくれていただけだった。他のみんなにはない、わたしの素晴らしいところについて教えてくれていたのだった。

 

「今」が変われば「未来」だけでなく「過去」さえも変わる。つらく苦しいだけの学校生活であり、ただの嫌な経験であり記憶だという過去が、あれは自分という素晴らしい人間について教えてくれる貴重な経験だったという過去に変わった。

 

わたしは今でも、今の日本の教育について疑問を持っている。けれど、わたしが受けてきた教育のおかげで、この社会の真実からズレまくった考え方に触れてきて、さらにそんな薄汚い社会に染まり切れなかったわたしの「社会不適合」という素晴らしい才能のおかげで、このような真実にたどり着くことが出来た。学校でみんなと馴染めなかったおかげで、わたしがもつ素晴らしい才能たちに気付くことができた。だからこれはこれで必要なストーリーだったのだと思うし、そういう意味でもやはり世界は「完璧」だ。

わたしにとって学校は、平均的な「みんな」や社会の「普通」を知ることで、自分らしさを学ぶ場所だったと今になって思う。そして「みんな」や「普通」に違和感を持ち、本来の在り方について学ぶため、真実に気付いて学ぶための学校でもあった。

どうしても皮肉はこもってしまうけれど、そういうことを学ばせてもらった学校に感謝。

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